18世紀後半










 ローソクを一本だけ燭台にともしながら、随分と他愛のないことばかり考え込んでいた。
 ドアの開いた音だけでとんでいってしまうくらいの些事ばかり。

 だから夢から覚めたような心地のまま、立った窓辺からドアを見て、帰ったのか、とだけ言った。

 数日前に戦地から戻った様だったが、こんな夜更けにわざわざ訪ねてきたのが彼らしい。
  まったく、相応しい扱いだ。
 この自分をひとつの屋敷に閉じ込めておいてのうのうと。ああしかも、よりにもよってロンドンだと云うのだから気にくわない。

 アーサーは奇妙に歪んだ顔をして、起きていたのか、と呟く。
 寝ているなんて、考えてもなかったといった風だ。燭台を目に入れてやっと非常識な時間だという事に気がついた、そのような。

 逡巡は一瞬で、無遠慮にアーサーが踏み入ってきた。
 紳士が聞いてあきれる態度だが、幸いにあしのながい上質のカーペットに夜の静寂は保たれる。
 アーサーは本当に遠慮もなく鼻先に足を留めた。

 カーテンを引かないままの窓から外は何も見えなかった。この時間の夏の庭は、曇天の空の下に塗りつぶされた頻闇だ。
 それとも、濃霧が渦巻いてみんな閉じ込めているのかもしれない。

 アーサーは俯いている。自分より背の低い彼の金髪が灯りをはじく。

 先ほど考えていたのは、おおよそそんな事だったことを思い出した。霧の向こう側。そのようなことだ。



 訣別の戦場には、雨が降っていたのだったか。


 「アメリカが、独立した」

 知っている。

 「・・あいつは、」

 声が途切れた。アーサーは俯いたまま如何しても言葉が出てこない。
 続く沈黙には、夜の無表情を押しのけるアーサーの感情が見え隠れしていて、嘆息する。
 アーサーの肩が揺れた。

 「俺は、あまい性格なんかしていない」

 彼に行く場所など、ましてや本音を預け得る人物など居ないことを知っている。
 そしておそらく、その吐き出せない本音も。
 だがアーサーの下で虐げられているこの現状で、彼を案じるほどの気持ちがあるはずもない。

 「これ以上気分を害したくないのなら、今すぐ自室で酒でもあおるといい」 

 慰めを期待されても困る。
 精一杯の譲歩だったそのことばにとうとう、アーサーは感情的に限界を迎えたらしい。

 「・・煩い!」

 ぎちりと音が聞こえそうなほど強く握りこまれた腕を、思い切り引かれる。
 抗えば傷めるだけの動きに流されながらバランスをとって。
 堪えきるかという処で、倒れ込むようにして体重をかけてきたアーサーに傍のイスに押し付けられた。

 二人分の体重でしたたかに打った背中が鈍痛を訴える。
 しかしそれよりも、ちらつく鈍い金髪が眼に障った。 

 「何も言えなくなったのはお前だろう。それとも、言い当てようか?」

 息を詰めたアーサーの顎を捕らえて顔を上げさせる。
 逸らせなくなった眼が、大きく見開かれる。


 「アーサー、貴様を慕った無垢な子供は、何故反旗を翻したんだろうな」

 やっと手に入れた大切な温もりだったのに。独りでしかないお前を受け入れてくれた、幼い子供。
 手放さねばならなかった、理由。

 うるさい、と声を伴わずにアーサーが呻く。眉間がきつくよせられる。


 「何が間違いだったのかなんて、お前が手にしようとしたのが間違いじゃないか」

 家族のような繋がり?
 これまで幾度かの地で争った?血を流した?虐げた?搾取してきた?

 「独占と拘束は何より若い彼の、アルフレッドの、厭うものだったろうにな」
 

 泣く寸前を堪え、ぎり、と噛みしめられた唇をなぞる。爪を突き立てるよりも、彼を傷付けると知っていた。
 その抱く期待を壊す瞬間に。


 「お前の愛情は傲慢なんだ」

 断定する。
 自分の力を疑うこともせずに相手に押し付けて。守るために、相手を圧殺しておいて。

 「うるさ、い!」

 涙に掠れながら掴んだままの手の力が強くなる。

 「俺は、大英帝国だぞ・・!自分の力の、何処を疑えって?
  俺のせいじゃ、ない。俺から離れていったのは、あいつだ・・!」

 絞り出された声。今にも崩れ落ちそうなバランスの悪さで身体を預けてくるので仕様が無く、痩身を支える。

 「お前は、。俺から離れていったりなんて・・・させねえぞ」

 離しはしない、絶対だ。揺らぐ声音で言い放つ、解けない拘束は縋るようだった。まるで彼自身が手のかかる子供だ。
 衝動的にこみあげた哄笑はその子供を嘲るものではなかった。
 けれどもやはり、傷付けることには変わりないのだ。

 自分の甘さを嘲笑う。


 「なにを、今更」


 馬鹿な子だ。

 俺はお前から離れられないからこそ、これほどに、憎いというのに。


 「アーサー」

 僅かに見上げたその眼に、囁いてやる。言い忘れていたな。
 悪意から来た、言葉だったかもしれない。
 
 「おかえり」


 堪え切れなかった涙が落ちた。拭う指も受け止める唇も存在しない、しずく。


 ああなんて、それは残酷な甘さだったのだろう。