意味の無いような短文。繰言。増えたら整理するかもです。
血迷って過去のものも数点!










神様っているの?
いるさ。
日は昇るし水は流れるし岩は砕ける。その節理を運命と呼び、運命とはすなわち神だ。
だから万物に神は宿る。
日にはひの、水にはみずの、岩にはいわの。
火に、川に、石に、木に、稲に、八百万の。
神がヒトの容を顕すのは人が見るからにすぎない。

ああそして、人の神がイエスだ。
ヤーウェ、ゴット、天帝。
全てを統べるものが人であるという意思のもとに存在する。全知全能とはひとにとっての全てなのだ。
人は見たいものを夢見る。
奇跡は人が起こすのだよ。










 合理化は、効率的な行動に必要不可欠である。
 合理的な思想で事に当たるのが、一番賢い道だと信じている。
 それは、ある意味での信奉であることを、理解してなければならない。
 信仰は精神に必要であることと、行き過ぎた信仰心の暴走と、信仰が示してくれる恩恵とは、一重であるのだ。
 信じていないだなんて、信じたくないという思い込みで。
 信じているが、信じているのは此処までだと、明確な線引きをするのが良い。
  不明確な境界を、遠くから眺めるのが平穏なのだ。













 
誰もが悪くない話なんてどこにでも転がっていて、ちょっとのずれが大きな損失を生みだす理不尽さは世界の
仕組みに組み込まれている。その仕組みがある故に、世界が成り立つという容赦のなささえあって。
ざまをみろ。
人が理不尽を生みだす様を。
世界の仕打ちを怨むのは、人ばかり。














ちょっと不幸で
でもそれが普通だと思い込んで

そうして過ごす平穏を、さも愛しているみたいに!

(幸せが欲しいのなら手を伸ばすべきなのに)

笑う理由があっても笑わないかもしれない。
でも私は、泣く理由があったらきっと泣くんだ。

(不幸せにでもなったつもりかい)

バカみたいだ。

生きやすくするのも
生き辛くするのも、

暇つぶしとかわらないじゃないですか!


 











 奇跡は存在する。
 近似は限りなく0に近いのであって、無ではない。
 あるいは零でさえも知覚する限り存在するのだ。

 矛盾は双方とも現存し、

 真理は偽の対として実在し、

 杞憂は憂う限り実体を得ることができるのだ。

 だから奇跡すら―――、














 「馬鹿と煙は高いところが好き」
 何でだと思う。
 高いところは、重力を感じられるからよ。
 だから高所恐怖症なんて精神病があるのだわ。
 例えば高い塔の鉄筋の足場。簡単に重力に引きこまれるだろう境界線。
 踏み出せば違うところへ行けるのに、その一歩の重要性を、押しつけるような重力が教えてくれる所。
 馬鹿には一番の薬だわ。
 それだから。
 眩暈を。
 考えずとも感じて思い知るために。
 高い場所。
 自由落下と。
 他界。
 地上に足をつけてさえいれば安全なものを。
 高みにのぼるのなら、結局は足許を疎かにできなくなるのにね。














 年月を経るごとに、一体何が変わっていくのだろう。

 てのひらを奉げる。

 この矮小な領域で、支えきれるものがあるのだろうか。

 零れ落ちる砂の幻想をみる。

 その感覚が心地よくて、幾度だって玩んでいたと、いうのに。

 海辺ならば。

 ああ、潮騒が聴こえてもいいはずだ。

 風が耳もとで渦巻いて足下の砂丘を崩した。

 夢ではない感触が、面白くて繰り返す。

  まるで現実味がない虚構。

 どうやっても私たちは愚かであったか。

 上げた掌の先は、見失って遠かった。














 さて一つ、問題を提起しよう。とは言ってみても所詮は暇人の繰り言、根拠も証左も理論さえ曖昧な考察とも言えはし
 ない、ただ浮かんで流れる洋上の木切れほどにも価値の無い藻屑である空想の類であることは述べておく。つまりは信
 頼性など持ち得ない話だ。万が一、いや億万が一にでも信じ込んでもらってはこちらが恥じ入るしかないということだ。
 さて無駄な気遣いはこの程度にしておいて。
 そう、提起し是非とも他者の意見を容れてみたいと考える問題とは、人その他無数の生物の視覚についてだ。ご存じ人
 とは五感を持つとはいっても(第六感というところの心霊的感覚は除いておく。しかしながら第六感とは五感で感知し
 たものの、その脳で処理できなかった情報の知覚だとも考えられはしないかとここに記しておく)、総てが同程度に感
 覚を受け持つのではなく、外界の情報の大部分が視覚にたよっている。視覚を主とするとその他は、聴覚、触覚、嗅覚、
 味覚の順で占める割合は大きい。ここで聴覚≧触覚としたのは外界の範囲を手の届く範囲ではなく目の届く範囲としよ
 うと思うからである。基準が視覚ならば主な部分を視覚に頼るのは当然であって本末が転倒している様な気もするが、
 もとが気紛れの話であるためここでは勘弁して頂きたい。
 そして、視覚について何が問題かといえばそれは、光の反射によるモノの映像化――色の見え方である。
 さてここで、生物の学習を思い出していただこう。植物の構造、生育の過程で光の照射実験を学ぶのだが、詳しい実験
 方法と結果は割愛しておく。正確に覚えていないだけかもしれない。まあおぼろげながら思い出したところで、さて。
 植物は太陽光を吸収し、その光エネルギーによって光合成をおこなうのだが、太陽光全てではなくある程度吸収する波
 長の範囲が限られている。吸収されるのは、人の目に映る可視光線で大まかに言うと波長の短い紫と、長い赤。間に挟
 まれた青〜黄は反射される、つまりこれが人の目に入って色として認識されるのだ。このことから何が言いたいのかと
 いうと、植物の葉の葉緑体(さらにいうと葉緑体中のクロロフィル)は“緑色の色素をもつ”ではなく、“緑の可視光
 線を反射する物質を持つ”と表すのが正確ではないか、という事だ。
 植物が実際に内包しているのは緑ではなく、紫や赤なのだ。色の要素としての紫や赤の光を孕んでいる。植物の緑とし
 て映るのは、紫や赤を奪いこんで飲下して残滓となった光。そう、私たちが目に映す光は、対象物に拒絶された色であ
 るのだ。
 極論を言おう。人が視覚によって認識している色彩は実際その認識を反転した色彩であり、人が信じ込んで疑う必要も
 有そうとはしない世界は、人の目線のその前に、異なる姿で曝されているのだ。
 さてこの世界と人の隔絶は、決定的だとは、思われないか?
















 蟠、
  (R-15?)













 羽虫の行進が邪魔をする

 夏の夜の雑音

 生命に満ち満ちている

 気配

 灯る熱

 虫は太陽には焦がれない

 ならば 光 は


 希望だとでも いうのだろうか




























          誰もいない路地に入る。
          だれもいなければ、ここに
          だれか居たのかすらわからなくなる。
          ここが何処かさえ定かでなくなる。
 路
          私は 誰 だった?


 に
          此処はどこで、
 彷
          お前はだれだ。
  徨

 う
          私は

          どこへ行けば良い、





(実はもうちょい続きあったけどなんとなくここまでで。)






















雨音に、泣きたい気分になった。じわりとした熱を、零すまいと目を閉じる。

痛みに似たその衝動は全身を巡り。

脳髄の奥に、沁み込んで涙腺を刺激した。


雨が降っているのだ。

私を遮断している。


湿った空気が、じわりと侵入する。



私の、熱を奪おうとするのだ。
































足元さえ、揺らぐ様だった。

先にみえるものは、茫洋とした、曖昧でしかない光。

うしろには、まだ 何も無い。


残してきたモノも、選ばなければいけなかったことも。


ただ与えられたものたちが、玩具箱の中のように 雑然と転がっている。



まだ何も 知らない。


自分が立っている場所が、世界のはじまりだ。

重圧と不安と、都合のよすぎる期待。


転ぶのは痛いだろうし、走り詰めでは疲れてしまう。



ただ 一歩 踏み出すだけで、揺らぐのは自分だ。



それでも、世界は勝手に巡っていくから。




歩き始める、覚悟だけを思った。




































世界の姿を見る度に想う。


体感せずともその巨大さをしのぶことができる渓だとか、

奇妙にねじれ立つ奇岩だとか、


このホシが変化して現れたその一瞬を、私たちが

見ているのだと、おもう。


大昔の大河の跡だとか、隆起した大陸の証拠だとか。


まるで今このときに完成されているのだというように、

声高に保存を謳うのは、滑稽に思える。


核爆弾だって地形を変えはしない。



今のその姿など、次の二億年後には残っていない。





総ては海の底の奇形かもしれないのだ。





私たちの刹那の繁栄など、

果たしてどれほど意味があるのか。






(深夜のTV見ながら書きなぐってた記憶が。地球の壮大さって怖いよねって話)


































 
(微グロ注意)


 ごつり、と肉の内側で骨のなる音がした。
 たてられた歯の間で、ぬめる舌が蠢く。

 皮の上辺だけを嬲るそれはもどかしく、あいまいな熱。

 焼くほどにあつければよかったんだ。いっそ其の儘喰い千切ってくれれば。


 これほどに、惑うことは無かったのに。



 (伸ばさずにはおられない、この、欲塗れの手)

 (触れることすら、躊躇うのに)




 縋るように、境界をなぞる指が眼窩をふさぐ。
 そしてまた目蓋を辿りおちていくその爪先を、口唇で食んだ。

 奥歯ですり潰して、呑み込んでしまえたなら、この熱は腹を満たしてくれるだろうか。


 吐き出すことのできないこの胸中のナニかを、浸してしまえば良いのだ。





 (泣けるほど、叫びだせるほど、狂えるほどに)

 (蓄積する、情動が、)